考察覗き魔

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ダークソウルシリーズに関する考察

 [ネタバレ注意]シン・エヴァンゲリオンをみてきたオタクの吐露

エヴァンゲリオンの映画を観てきました。
家に帰ってパンフレットも開かずに書き始めています。

当然のようにネタバレ注意です。どうか読むならアニメ、旧劇場版、新劇場版を観てから観てください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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まずはじめに、この記事はエヴァの考察ではありません。ただのオタクの戯言です。
ダークソウルも関係ありません。

 

私、アニメやゲームは大好きなのですが、中学生くらいでしょうか、アニメを見るようになり、エヴァンゲリオンもその時に観ました。いわばオタクの原体験の一つがエヴァンゲリオンでした。
少しグロテスクな描写や、神話から引用された単語、ボーイミーツガールから始まり心象的な表現が多く、世界が滅んでいくいわゆる「セカイ系」と呼ばれるような世界観に、中坊の私は心奪われました。当時学校では友人とエヴァンゲリオンについてよく議論して盛り上がっていたのを覚えています。カトリックの学校だったので旧約聖書を購入しており、ウキウキで創世記を読んでいた記憶があります。リビドーって言葉もエヴァで知ったかなあ。

難解なストーリーや演出に惹かれていたのも事実ですが、オタクとしてアスカもすごく好きだった記憶があります。陳腐な表現で済ましたら怒られそうだけど、ツンデレいいよね。

まあそんな自分語りは置いておいて。
シン・エヴァンゲリオンを観ました。

簡単な感想は、「創作物の作る呪縛とその解放」の作品。

なーんかカッコつけたこと言っていますが、エヴァンゲリオンの「真の」結末として素晴らしいものを観ました。

まず一つに、キャラクターの説明の多さ。
自分の気持ちや設定をはっきりセリフとして喋ってくれる、これだけでオタクはある意味「やることがなくなる」。長い物語の結末として、後引くようなことをしない、作中でも何度も言われる「ケジメ」としての作品。

 

そして次に、過去映像作品からの多くのパロディ。

まるで劇薬のような、旧劇場版のエヴァンゲリオンでの演出が、このシン・エヴァンゲリオンではキャラクターの成長とともに新しく生まれ変わっています。
「旧劇場版のあの時シンジはこうした」ことを我々は知っているしそれが好きだからエヴァが好きだった。
でも今回は違う、砂浜で強調されたセクシーさで横になるアスカに対して、シンジは自慰行為もしないし首を締めもしない。ただ「好きだった」とお別れをする。

また、キャラクター同志でカップルが生まれたことも作品へのケジメの一つだろう。
綾波やアスカにどハマりした人たち、そんな人たちの「好き」という感情も解放してあげなければいけない。最終回発情期なんて呼ばれることもあるが、作品の一部であるキャラクターに対する気持ちにけりをつける大きなケジメだろう。

僕らはエヴァが「好きだった」。
私なんか、「まあエヴァは好きだけど公開日にみるほどでは〜」なんてほざき、好きであることを自覚していなかった。公開されて数日、急にネタバレが怖くなり急いで観に行った。
そして観て思った、「エヴァが大好きだったんだなあ」。
でもこれはお別れとケジメ、エヴァンゲリオンからの解放、いや、「創作物に囚われた呪いから解放する」作品である。
エヴァが大好きでのめり込んでいた人を解放しなければならない。
作中では何度も、現実世界を突きつけられた。原画がそのまま映像にされていたり、特撮のようなセットで戦うエヴァンゲリオン、撮影のためのビデオカメラ、スタジオで話すシンジ、人が声をあてていることを自覚させるシンジの声優の変更、そして最後の現実世界の空撮。新劇場版からの新キャラクターであるマリがシンジを救いだすのも、旧劇場の世界、エヴァの世界に囚われた我々を解放する新しい存在ということだったのかなあ、そんな風に思ってしまいました。

エヴァの世界観にのめり込んだ人、キャラクターにガチ恋した人、新作が生き甲斐だった人。視聴者も、創作者も、すべて現実世界の人間である。「現実を見ろ!」なんて厳しいメッセージでは無く、自分のオタクの原体験「空想のエヴァンゲリオンの世界」がシュワーっと現実に溶けていくような、「現実もみなきゃなあ」と自然と現実世界に引き戻してくれるような作品でした。
僕は創作物の呪いにかかった亡者なので、いまだに「ダークソウルの新作くれ!」と言っちゃうけどね。

 

さらば、全てのエヴァンゲリオン
ありがとう、全てのエヴァンゲリオン

 

あ、パンフレット読まなきゃー